オースチン
クラシックカー然としたフォルムとフェイス
クラシックカー然としたフォルムとフェイス
創業は1905年と長い歴史を誇り、第一次世界大戦では装甲車を手掛け、日本陸軍もオースチン製の装甲車を購入していたという。第二次世界大戦ではクルマだけでなく飛行機も生産するほどの実力メーカーだったことはさほど知られていません。
サイズは日本の軽自動車よりもやや大きい程度。コンパクトながら天井が高いため、意外と窮屈さは感じられない。それにしても、ほどよいサイズでクラシックカー然としたフォルムとフェイス。
イギリス本国の愛好家たちの間では、小排気量のこのクルマをベースにカスタムし、クラシックカーレースに参戦する粋な遊びをしているのだとか。
元ラリードライバーのドナルド・ヒーレーは、オースチンの総帥レオナード・ロードと共同でオースチン・ヒーレー・ブランドを創立。1953年に最初の市販車100(後の100/6、3000)を登場させた。
続いて2人は、財布の軽い若者が購入できる軽量で安価なスポーツカーを計画。開発はドナルドと息子のジェフリーに任され、1958年5月にオースチン・ヒーレー・スプライト(妖精)としてデビューすることになった。
ボディは軽量なモノコック構造を採用し、剛性確保のためトランクリッドは設けられなかった。エンジンはBMC・Aタイプ直4OHV 948ccで、SUツインキャブ装備により42.5ps/7.18kg-mを発揮。サスペンションは前がウィッシュボーン、後ろが1/4リーフ+ラジアスアームで、ブレーキは4輪ドラム。ラック&ピニオン・ステアリングも採用されていた。
北米の安全基準を満たすために、ピョコンと飛び出したヘッドライトにより、イギリスではカエルの目、北米では昆虫の目、日本では後にカニ目と呼ばれたこのクルマ、車重602kgと軽量で、侮れない性能を発揮した。
このため狙い通り若者を中心に人気を呼び、3年間で4万9000台程が生産されるヒット作となった。
1961年に各部をモダナイズしたスプライトMk.2と、双子車のMGミジェットMk.1が登場。以後仕様変更を続ける(別項参照)が、スプライトは1971年に生産を終了。ミジェットは1979年まで生き延びた。
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